HOWS講座「大西巨人『神聖喜劇』を読む」始ま
世界文学の傑作をめぐる討議に参加を

 「『神聖喜劇』が外国語に翻訳されれば、間違いなく世界文学の傑作として評価されることになるだろう」と、英文学者の立野正裕さんは言う。
 『神聖喜劇』は、大西巨人が一九五五年から四半世紀を費やして完成させた、文庫版で全五冊二五〇〇ページに及ぶ大長編小説である。すでに「戦後文学の金字塔」などと称されているが、評価はまだ作品の実質に追いついていない。
 主人公は、東堂太郎という二〇歳前半の青年。アメリカとの戦争が始まった一九四二年一月、教育招集兵として対馬の重砲兵聯隊に入る。マルクス主義に接近しつつあった知識人のかれであったが、ファシズムに傾斜していく社会は、容赦なく自由を奪っていった。絶望した東堂は、自分を無用の存在と見なし、死に場所を求めて兵となる。しかし、上官たちの理不尽な命令に服することができなかったかれは、抗いの声を発する。
 『神聖喜劇』は、三か月の兵営生活を通じて、東堂が回生していく過程を扱っている。『神聖喜劇』は、なぜ傑作か。
 本作は、非凡な記憶力を持った主人公が軍隊法規を駆使して上官の暴力を封じていく言動を描いており、痛快である。兵営に集められた多様な職業、階級の人々の言葉のやり取りにおけるすれ違いが取り上げられ、読者を爆笑させる。軍隊の慣習への注視を通じて身分の高い人間の責任が問われない日本社会特有の構造が浮き彫りにされている。
 さらに本作は、困難な状況の中で異議を唱える勇気が有志の人間に働きかけ、連帯を生み出していくことを示して、感動的である。
 HOWS講座「大西巨人『神聖喜劇』を読む」は、重層的な魅力を持つ本作の今日的な意義を探るために企画された。一年をかけて『神聖喜劇』を精読し、意見を交換しながら参加者の認識を鍛えていくことが目的である。平日の夜の開催にもかかわらず、第一回目には、二十数名が参加した。
 冒頭、アドバイザーの山口直孝がまず発言した。『神聖喜劇』を読む上で、これ以上望ましい場所はない。『神聖喜劇』の一部は、『社会評論』に発表された。一九九七年には、本郷文化フォーラム連続講座(HOWSの前身)「大西巨人――その文学と思想」(全五回)が、二〇〇三年から二〇〇四年にかけては、今回と同じく「大西巨人『神聖喜劇』を読む」(全一〇回)が行なわれている。積み重ねられた知の蓄積を持つこの場所は、「聖地」と呼ぶにふさわしい。「聖地」とは、作品に登場する舞台を観光する消費行動の対象ではない。「神聖」なる「喜劇」を読み込み、社会変革の気風を生み出す「根拠地」を作り出すことを目指したい。過去の講座の資料を示しながら、山口は以上のような抱負を述べた。
 報告者は、HOWS受講生の伊藤龍哉さん。「東堂太郎の虚無主義と『何物かへの恐れ』」と題した報告に先立ち、話し合いが弁証法的に展開していくことが望ましい、という思いが語られた。東堂の自己語りを作品の多様な形式が相対化するのに見合うように、参加者の思いが個的であることを越えていくことが望ましく、そのための話題が提供できれば、と伊藤さんは前置きした。
 報告では、主人公の特異な虚無主義の内実が検証された。
 自棄的な心情に陥った場合、言動は普通他人を顧みなくなる。ところが東堂の場合は社会的な意識が手放されておらず、思考が論理的である。
 「克己主義」と名付けられた性向は、自己の内に自身ならざるものを呼び込み、不正を目の当たりにした時に声を上げることを促す。『神聖喜劇』において、虚無主義からたたかいへと転じていくことが必然的であること、「何物かへの恐れ」の復興が追究されていることを、伊藤さんは指摘した。有島武郎『或る女』、コンラッド『闇の奥』、シーモノフ『ロシヤの人々』などとの対照は、作品の普遍性を解明する手続きとして説得的であった。
 討論では、報告における虚無主義のとらえ方について質問があったほか、武士道など前近代的な思想の受容、民族と人民とを重ねて発想している姿勢、同時代の共産党の動向からの影響などをめぐって意見が出された。活発なやり取りは、予定時間を過ぎ、講座の後に開かれた懇親会でも続いた。冒頭に紹介した立野さんの言葉は、懇親会の時のものである。
 東堂太郎が触知し、しかし、明確に言語化できていないことに迫ろうとする、伊藤さんの姿勢が印象に残った。東堂たちの実践を自分の所属する場でいかに引き継ぐかを模索する参加者の問題意識にも響くものがあった。東堂たち「食卓末席組」の教育兵たちが兵営の中で民主的に協議していくさまが、本郷の夜に一瞬現われたと言えるかもしれない。
 講座は、未読者も歓迎である。一回限りの参加もむろん構わない。正しくあることを問う難しさと楽しさとを体験する喜びを一人でも多く共有したい。有志の方は、ぜひ足を運んでほしい。 【山口直孝】

(『思想運動』1035号 2018年12月15日号)