HOWS校務員会でのカリキュラム討議から
闘いの起点をどこにみるか
問われつづけている労働者階級人民の闘争主体

        鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)、富山栄子(国際平和交流フォーラム代表)
        山口正紀(ジャーナリスト)、山下勇男(社会主義理論研究)、
        広野省三(HOWS事務局責任者)、土松克典(韓国労働運動研究)    

 以下に掲載する文章は、本郷文化フォーラムワーカーズスクール(HOWS)二〇一八年度後期カリキュラムの作成に向けて、昨年八月二十九日に行なったHOWS校務委員会での討議を、主に思想的・理論的課題に焦点を当てて再構成したものである。カリキュラムはその後、三回の事務局会議を経て確定され十一月からスタートしているが、それはこの討議を土台にして組み立てられている。数か月が経っているが、ここでの状況認識が、「正しくも」というか「悲しくも」と言おうか、ほぼその想定どおりの展開を示している。二〇一八年は南北朝鮮の平和的統一に向けての動きが前進した。沖縄でも安倍政権の強権政治に対する決して諦めない闘いがつづけられている。それらの闘いに連なるための基本認識を作り上げる参考にしてほしい。 【編集部】

無理が通れば道理が引っこむ末期的症状を呈する日本社会

山口 運動する側に無力感みたいなものがあるな、という感じがする。「モリ・カケ」など、安倍がこれだけひどいことをやって、二〇一八年の春頃にはもう安倍の三選はないだろうという雰囲気だったのが、なんだかんだと言いながら、結局、いまはもう「安倍しかいない」の流れに戻ってしまっている。だれにでもわかるウソと巨悪を追い詰めるところまでいかない。そういうことに対する徒労感みたいなものが、すごくある。
 反原発もあちこちで一生懸命頑張ってやってきているけれど、結局つぎつぎと再稼動されてしまっている。今度は東海もやりそうだ。いつ、どこで、どう止めればいいのか。沖縄はあきらめることなく闘っているけれど、安倍たちはまったく聞く耳を持たない。
 そういう意味で言うと、二~三年前までは、ある程度それらに対して反対する空気があったけど、いまはそれがサーッと引いてきて、「もう、しょうがないや」、「安倍もひどいし、日大もひどいし、東京医大もひどいし、みんなひどいんだけれど、しょうがないよ」という、そういうアパシー(政治的無関心)というか雰囲気が社会に蔓延してきていて、相当の末期現象にあるという気がする。この社会を復元させる能力は日本人にはない、みたいな「あきらめムード」も広がっている。新聞の文化欄の論調などでも、これらをテーマにした議論が結構出てきている。
 マスコミがこうした風潮を後押ししている。まさに無理が通れば道理が引っ込む世の中になっている。そういうものに対して、「じゃあどうするんだ」ということで、もう一度そのエネルギーを出し直すような、方法論みたいなものが、トータルなものとして出てこないといけないと思う。
 もちろん、個別の課題をやらなければしょうがないのだけれど、そこを通じて日本の社会状況全体をどうやって変えていくのかという課題と正面から向き合う必要がある。しかし、そう考えてはみても、なにか重たいものがドーンとのしかかっているような気がする。
 労働運動でも「自分たちのところでやればやるだけ、自分たちにマイナスになってくるからやらない方がいいよ」、というような、そんな感覚がありますよね。それに「立憲主義を守れ!」と叫ぶ野党が「こんなことは許せない」と言って抗議し、全員で国会のなかで籠城するということもない。
 「明治一五〇年」と言って騒いでいるけど、日本の近代の一五〇年がこんなどん詰まりになってしまっているのは、一体なんなんだよ、と。そこを真正面から問い直すような、いわば哲学的な問題があるような気がする。

山下 「代議制民主主義の危機」を言う人たちが、商業新聞の論調でも多少出始めている。しかしそれをどうやってひっくり返していくのか、となると決め手がない。
 現状を悲観的に見るような空気が、だんだんと広がっていっている。白井聡の本などが売れるのは、もしかしたらそういう空気を反映しているのではないか、という気がする。もはや天皇が呼びかけるしかない、という、そういう空気が。

富山 あとは、「あなた任せ」。それぞれみんな自分の問題なのに、代議制民主主義というか、「人に任せて」自分=個人は責任を放棄する、そういう社会風潮がすごく広がっている。それこそ、電車の中では世の中がどうだろうとゲームをやるか、寝ているかどっちか、というような。

広野 さいきんアメリカで社会主義者を自任する若者が増えてきているという新聞記事(『毎日』)を読んだ。資本主義のなかでは問題は解決できないと考える若者が、社会主義を掲げてサンダースのまわりなどにも集まっている。一七〇〇人ぐらいで合宿をやったりとか、社会主義を標榜している団体が五万人ぐらいの党員を持っているという。かれらは、トランプに反対しても、そのまま民主党にはいかない。そしてこれは、体制内化しているアメリカ共産党の影響下の動きじゃない。その意味ではアメリカの方が健全と言えるのではないか。しかしこういう動きが日本にはない。安倍らと金持ちたちのやりたい放題、こんなにひどい状況なのに、日本共産党をはじめ日本の左翼が、はっきりと資本主義批判と社会主義への確信を示さない。だから、日本社会に運動も展望も出てこないのではないか。

われわれが目指す社会主義理論と日本国憲法擁護闘争の関係性

鎌倉 われわれが目指す社会主義を、理論的にきちんと確定しないといけない。そういう時期なのではないか。「立憲主義」だけでは、とてもじゃないけれど、どういう方向に向かったらいいのかは出てこない。安倍政治と日本資本主義の現体制に反対する側に、労働が基本だという考えはある。それはあるのだけれど、その「基本だ」という考え方と、交換原理、市場原理を認める考え方が結びついてしまっている。だからこれがどういうふうに市場原理のなかで矛盾を引き起こしているか、というところまで踏み込まない。われわれが社会主義を目指すということを明確にすることと、社会主義の原理はなんなのかを、わたしたち自身が確定しなければいけないのではないか。現状を脱却していく方法は、そこから見えてくるのではないか。
 専修大学の内藤光博さんはジョン‐ロックの専門家だが、かれは日本国憲法のベースはロックの『市民社会論』だと言う。ロックのレベルは、自然権、人間はすべて生まれながらにして自由、平等というところから始まる。それが生産力が発展していくと剰余が生まれる。剰余を土地から取ってしまうと、それはやりすぎだとなる。そうすると、貨幣にすればいいというので、貨幣に転換していく。
 だから市民社会といっても、ほとんど商品経済、そして貨幣経済を肯定している。日本国憲法だって資本主義を否定しているわけじゃない。所有権は前提にされている。基本的人権、生存権、勤労権、それを重要視しているということでは評価していい。だけれど財産権を基本的には認めてしまっている。人権と財産権はどう結びつくのか。現実には財産権、つまり金儲けの権利によって、人権が奪われている。

土松 鎌倉さんの言われる唯物史観に基づく社会主義ではなく、資本論ベースの社会主義原理の確立というのはどういう意味ですか?

鎌倉 マルクス主義は労働生産力を基本においているが、その内容は、労働者の力、労働者の結合労働、協同労働ということだ。しかし生産力の発展で、生産力が社会化していって、それに見合って必然的に、生産力に見合う生産関係が自然発生的に形成されるというような理解がある。それを極端に定式化したのが、スターリンだ。そこには労働者自身が社会主義建設の意識を持ち、自分たちが実力を発揮してこれを実現しなければいけないという、労働者主体論が明確にされていない。
 憲法擁護の闘いでも、やはり労働者、人民主体論というのを、そこを位置づけないとぼくらとしては方向が見えないんじゃないか。戦後は平和でよかった、とか。結局、そのレベルになってしまう。憲法があればすべて片付くような、そこから一歩も出ない。

富山 先ほど、広野さんが『毎日』に出た記事のことを言ったけれど、どうもわたしは胡散臭くて、空想的社会主義じゃないかなと思ってみている。それは本当の社会主義とは違うから、あまり囃し立ててみる必要はない、とわたしは思う。サンダースは、いわゆる社会民主主義について話していると思う。

山下 わたしは広野さんと同じようにみている。社会主義ということ自体が死語になってしまっているアメリカ社会で、サンダース自身は自分を民主的社会主義者と言っているけど、かれの演説はすごいですよ。本当に労働者に直接訴えているもの。「なんでこんなに貧しいのか。二つも三つもの仕事を掛け持ちしなければ生きていけない、こういう社会はおかしいだろう」と。
 そのアジテーションはすごいですよ。わたしは、これが社会主義を復権させる流れの入り口みたいなところに間違いなく立っていると思う。

日本社会に深く根を下ろす天皇制と「平成の平和天皇論」の捏造

山下 白井の本(『国体論』)が売れる基盤はなんなのか。
 以前、山口さんが『週刊金曜日』に載った内田樹の記事を批判しましたよね。結局かれは、憲法改悪を阻止できるのはアメリカと天皇だけだと言う。そうしてその後、自分は天皇主義者になったというようなことを言っている。そうしたら今度は、白井が天皇主義者みたいな顔をして登場してくる。白井はこの本のなかで、戦後の国体の矛盾を一身に背負って、それを覆そうとして天皇が八月八日のメッセージを発したのである、みたいなことを書いている。『図書新聞』の大澤真幸との対談では、八月八日のメッセージは天皇による天皇制批判であると……。なんでそんな読み方ができるのか、摩訶不思議だけれど。やはりいまの日本社会の、非常に沈滞した、どういうふうにこの状況を打開したらいいのかわからないような空気を、どうもあの本は反映しているような気がする。八万部ぐらい売れているのでしょう? 
 あの本の構成自体が八月八日の天皇の「お言葉」から始まって、終わりもまた「お言葉」で終わる。だから、対米従属論などというところに話題の焦点が当てられているが、結局は天皇論ではないか。
 日本の近代の天皇制は天皇無答責論(天皇は一切責任を負わない)で始まっている。そういう構造がいまも日本社会に深く根を下ろしている。
 「モリ・カケ」問題にしても、「上」は何をやっても責任を負わないで済むという状態が押しつけられている。主権者としての人民の自覚はそこからは生まれない。そういう構造に、日本社会全体が落ち込んでいるのではないか。

広野 天皇制との対決という問題だが、いわゆる全共闘世代というか、六〇年安保以降の日本共産党に批判的な人たちが、そういう面での思想を確立できてこなかったのではないか。社会主義という思考の回路は随分昔から断っていたのだけれど、ソ連・東欧の社会主義の倒壊でそれが決定的になった。そうしてずっと企業社会のなかで生きてきたけれど、やはりいまの日本社会はおかしい、変だということを考えて国会前に行く。そこに白井みたいな、「対米従属」を批判し、一見何か元気のいいのが出てきた。白井は自分たちの跡を継いでくれているのだ、みたいな発想で読んでいるのではないか。だからわたしは、この本を若い人が読んでいるという気はあまりしないんですが。

山下 わたしもそうだと思う。だから、現状の閉そく感にとらわれている若い人というより、年配者が読んでいるような気がする。

広野 戦後民主主義を全否定してきたような人たちが、逆の意味で白井の「対米従属論」を持ち上げている。書評などを読むと、天皇のことなんて、ほとんど触れていない。大澤などはイデオロギッシュに言っているけど、他で取り上げているのは、みんな天皇のことを外した「対米従属」問題で取り上げている。鎌倉 大体天皇自体がアメリカへの従属を認めたんだからね。ところで、日本の「左翼」の多くは、社会主義に行く前に市民社会を考える。自由平等な市民社会。つまり資本主義的商品経済です。

山口 北欧的なところを目指し、それを社会主義に行く前提として構想している。共産党系の理論家はほとんどそうだ。その先の社会主義革命論がなくなってしまった。

山下 いや、あるにはあるらしいけど、それは将来国民が決めると言っている。このところ、市民革命というようなことを言う人が随分いる。でも、市民革命からやり直すということになると、歴史をいつまでさかのぼるのか。フランス革命ぐらいまで歴史をさかのぼらせようとしている。

山口 さいきんやったレイバーネットの合宿でも、金野正晴さんが「社会主義じゃなければ絶対にダメなんですよ」と言ったんですが、他の参加者はポカーンとしてて、「それはどういうことですか」みたいになっちゃったんですよ。つまり、それぐらいに社会主義というもの自体がイメージとして湧かなくなってしまっている。ぼくらは、革命運動の過程での誤りや問題とかはいっぱいあると思っているけれど、それ以前のところでは「資本主義のままではいつまでもズルズルいくんだよ、このままではどん詰まりだよ」という感覚がある。
 しかしソ連・東欧の社会主義が敗北してから三〇年ちかくになるいま、資本主義に対抗して社会主義になれば、というイメージそのものがまったくない。だから、何かを求めていろいろなところに出口を探すのだけれど、その出口が見えない。そういう状態じゃないか。
 オウム真理教の問題でも、なぜオウム的なところに行くのかと考えると、一つの出口を探してああいうところに行ってしまったと言える。オウム自体がミニ天皇制みたいになっている。そういうところでは、ミニ天皇もいまの天皇も出口に見えてしまう。安倍的なものに対抗して、まだ天皇の方がマシな出口に見えてしまう。
 社会主義の方向に向かう出口は戦後にいったんあったのだけれど、八〇年代から九〇年代にそれがほぼ解体してしまった。そこから三〇年ですから、みんな圧倒的に知らないですよね。そして昔の左翼も、いま、自分たちがどうすればいいのかまったく見えなくなっているわけでしょう。
 そこを踏まえて、われわれは何かを言わなければいけない。

広野 この間、社会主義青年同盟が発行する『青年の声』を読んでいたら、分割・民営化から三〇年以上が過ぎ、あと五年もすれば国鉄時代を知っている社員は職場からいなくなる。国労の組合員もほとんどが五年で退職する。この間に国労に入った若手約三〇〇人が取り残される、というふうに書いていた。JR東労は自業自得とも言えるが、当局と対立した途端に攻撃をうけ、四万六〇〇〇人いた組合員が一万一〇〇〇人ぐらいに激減しているという。
 「働き方改革」法案が通ってしまったから労働組合自体がほとんど機能しなくなって、残業規制もかけられなくなるという。連合は自分たちの地位を守るために会社と結託し、労働者が反乱を起こさない役目を果たすしかなくなっていく。
 そうすると労働組合自体が無用になりかねない。社会主義を目指すといってもその根本のところがズタズタにされている。そこをどう強化していくのか、課題は大きい。

諸国人民の反帝自主闘争に学び「日本第一主義」からの脱却を!

富山 日本人の意識のなかに先進国病みたいなものがあるように思う。日本の国民のなかにあるアジアの諸民族に比べて自分たちの方が優れているという意識。そこからスタートしているから、なかなか朝鮮の革命とか、キューバで起こっていることを、自分たちの問題として受け止められない。自分たちとは全然違うけど、「ああ、なんかやっているんだな」といった冷めた気持ちで見ている。たとえば、フィリピンやマレーシアから来たアジアの労働者たちが身の回わりにこんなにいても、その人たちの過去数十年の歴史すら、自分のものとはとらえきれない。社会主義というと、ヨーロッパで崩れた社会主義のことを思い出してみたり、思想的にも欧州的条件から生まれた思想しか学ばないという傾向がある。

鎌倉 まだ脱亜入欧があるのかな。

富山 わたしはあると思います。だから何か、日本は、自分たちは、先進国だと思っている。わたしはさいきん、貧しい人に五人の組を作ってもらって、生活のためではなく生産のためにお金を貸すバングラデシュで始まったグラミン銀行のことを知ったんです。アメリカではやって、今度は日本にも上陸するという話を知りました。それを聞いてわたしは「ああ、バングラデシュってすごい国だな」と思った。
 もしかしたら、わたしたちはアメリカやイギリスなど、過去に植民地をもった国の歴史や思想が非常に重要なものであると思い込んでいるのではないか。非同盟諸国というのは、たまたま最大公約数が非同盟ということであって、実はそれぞれに歴史を持っている。ところが、アフリカで生まれたセク‐トゥーレとかエンクルマとか、そういう人たちの思想が全然日本に紹介されていない。あれは特殊な、あそこでだけ生まれたものだというような扱いだ。そういう日本人の狭さ。脱亜入欧じゃないけれど、左翼と言われている人もそれに染まってしまっているという感じが、わたしはすごくするんです。
 本当に非同盟の諸国民の歴史をもっとまじめに学ばないと、わたしたち自身も救われないと思う。わたしたちが常識だと思っていることを受け入れているのは、世界の人口の二〇%もないんです。いわゆる先進国病にわたしたちは侵されていると思う。

山下 安倍を突き動かしているのは優越感や劣等感がない交ぜになった感覚ではないだろうか。中国に追い越されて、アジアにおける日本の地位は下がってきている。負けるのはわかっているけれど……。この間は桜島をバックにして薩長同盟を演出するという……。

山口 吉田松陰をもっとも尊敬するというのだから。

山下 ヘイトスピーチがこんなに根付いてしまうという根拠は、安倍が二度目に登場したときに言った「日本を取り戻す」というスローガンが、人びとに支持されてしまう思想状況があるからだと思う。
 日本の労働者人民は、いまでも世界に冠たる日本経済と思っているのじゃないか。

広野 この間HOWSで、山下さんがグラフを示して、日本がいかに停滞しているかを説明したら、受講生の一人が、みんなはこういうのを出されると「もっと頑張れ」と言われているように思うのではないかと発言していた。いま世の中には、「日本はえらい」みたいな本がいっぱい出ている。安倍を支持している人たちは、日本の現実を直視するのではなく、「われわれにも未来があるんだ」と言ってくれる人たちになびくのだろう。

進行する南西諸島の軍事要塞化侵略軍めざす自衛隊の組織改編

富山 これまで米軍はアジア太平洋軍だったものを、インド太平洋軍と名前を変えた。
 安倍首相も「自由でひらかれたインド太平洋」と言っているけれど、われわれはその内容をもっとよく見ないといけないと思う。かれらはもっとも経済的な後進国(これはブルジョワ的な言い方であえて言っているが)をいかに収奪して儲けるか、搾取するかということを常に考えている。
 そういう意味からも「インド太平洋」となった背景をもう少し深く考えないといけない。すでに東シナ海とか南シナ海じゃない。南太平洋からインド洋から南極海まで頭に入っているし、「宇宙軍」と言って宇宙まで入っている。

山口 南西諸島への自衛隊の進出は、いまの自衛隊の構造的な変化を表わす大きな問題だ。さいきんは水陸機動団が演習して、「離島奪回」と言っているけれど、奪回すると想定した、その前のことを考えたら恐ろしい。中国がそこに来て占領するという前提ですからね。そのうえ、いま自衛隊を受け入れている島の市町村長は保守が支配してしまっている。問題は深刻だ。
 南西諸島問題だけではなくて、自衛隊本体の指揮系統が変わってしまっている。これまで陸上自衛隊は方面本部ごとに対応する。つまり防衛が建前だから、ということになっていた。それをこれからは統括した司令部をつくって出ていくという、そういう想定で侵略戦争を前提とした戦前の日本軍と同じ指揮系統に改編されている。一八年三月の自衛隊の大改編というのは大変な問題なのに、これを取り上げたのは『東京新聞』の半田滋さんぐらいだ。自衛隊の変質、侵略軍化で、相対的にアメリカ軍から独立して、自分たちの独自の役割を果たそうとしている。そうした問題の怖さがある。
 その与那国に天皇が行ったりしている。ちょうど、与那国に自衛隊が派遣されたその記念日に天皇が行って、現地の人を「慰めている」。天皇の果したあの機能・役割は「見事」だ。「あれが平和主義者か」とぼくはHOWSのメディア講座で話しましたが、そんな侵略の露払いのようなことをする平和主義者がいるものか。

戦争植民地支配の歴史を直視し朝鮮の平和統一を支持しよう!

土松 「天皇=平和主義者論」については、『琉球新報』なども「天皇も最後まで沖縄のことは忘れていなかった」ということで報道している。沖縄でも昭和天皇と現天皇を分けて考える報道がみられる。これまでもくり返し行なわれてきたこのような人民と天皇制に親和性があるような言説をどう批判していくのかは大きな課題だと思う。
 一方で、今年の南北の大衆レベルでの朝鮮半島の平和に向けた動きというのをみると、やはり大衆のエネルギーのすごさを感じる。八月十一日には自主的平和行進ということで在韓米国大使館へのデモ行進をしたり、その日に南北労働者の交流サッカーをしたり、アジア大会で初めて複数競技で南北の統一チームができたりしている。日本のマスコミ報道だけではそういう動きが見えない。こうした動きを見て安倍政権の排外主義を乗り越える大衆運動を日本の労働者人民が構想するきっかけにできないか、と考えている。
 それには、歴史認識がとても大切だ。来年は、3・1朝鮮独立運動一〇〇年ということで、東京でも一九年の三月に向けて運動をしていこうというスタート集会があった。それと連携してHOWSでも卞宰洙さんや朝鮮大学校の先生を招いた講座を企画するということが大事ではないか。
 それから、文在寅政権の性格をどう見るか? 最近また国家保安法による逮捕者を一人出している。金大中政権、盧武鉉政権のときもそうだったが、国家保安法撤廃というところまではいかない。そこには南北分断以来、韓国社会に牢固として根をはる〝親日派〟の存在がある。また統一問題でいうと、韓統連のような長年祖国の統一のために地の塩のような取り組みをつづけてきた人たちは排除して、政府の統制のきく人たちと、参与連帯とか市民運動の人たちを巻き込んでやっているというのが現状だ。6・15委員会のようなところは排除してという風になっている。この状況をいかに転換していくのかが、左派勢力・民族自主統一勢力の共通の課題となっている。

広野 米朝不可侵条約か平和条約が結ばれても、米国議会で三分の二以上の賛成を得られないと批准されない。

富山 キューバの封鎖についても、オバマ米政権は外交関係を開いたけれど、国連に行くと米政府は封鎖に賛成する。法律を取り下げるには議会を通らないとできないからだ。
 国交を回復したら、敵対的な経済関係はやめなければおかしい。しかし米国とイスラエルだけが、いまもなお……。
 おかしいじゃないですか、一九一対二なんて。米朝・朝米の平和条約にしても、議会を動かさなければならない。

広野 トランプにしても、軍産複合体がロビー活動で米国議会を牛耳っているから、三分の二はたいへんだ。

富山 文在寅政権の話に戻るが、かれは韓米同盟は認めている。だから大きな矛盾があり、かれの立っている位置もすごく難しい。

土松 終戦宣言をするというのは、南の文在寅大統領の側から言い出したことだ。しかしアメリカは、それをすぐに「うん」とは言わないだろう。
 文在寅政権が、アメリカが動かざるを得ないような構想と政治力学をどうつくるのかが問われているのではないか。朝米交渉になると、アメリカ側は終戦宣言よりも核のほうが、ということになって膠着状態が続いている。
 そして、これに横やりというか、関西ことばでいう「いっちょ噛み」しているのが日本の安倍政権だ。わたしは、安倍や麻生などの言動を見聞きしていると、ほんとうにかれらは植民地宗主国意識丸出しの連中だなと思う。侵略と植民地支配、その意識を、敗戦を契機に払拭しないまま温存・肥大化させてきた日本近現代一五〇年の歴史を、かれらは反省しないどころか、「良いことをやった」と正当化している。
 韓国でもその歴史は清算されないで、米軍政や歴代政権が“親日派”を温存・育成して、こんにちの韓国社会の桎梏となっている。この勢力こそ、いま国家保安法を温存させ、南北朝鮮の統一を阻害している部分なのだ。
 しかし、朝鮮民主主義人民共和国には、韓国と違って“親日派”は存在しない。これは、朝鮮が社会主義革命を行なって、“親日派”が根をはる土台そのものを一掃したからだ。この事実ひとつとっても、朝鮮が革命を行なった歴史的意義があるのであり、安倍や麻生はその意義を階級的本能によって理解しているからこそ、朝鮮を忌避し抹殺しようとしているのだ。
 どちらに未来があり、どちらが歴史の屑籠に葬り去られる運命にあるのか? 言うまでもなく朝鮮が歩んでいる方向に未来があるのであり、安倍たちには歴史の屑籠が待っている。しかしそれには、われわれ日本労働者階級人民が階級意識と歴史認識をもって主権を行使しなくてはならない。HOWSは、その意識を耕す共学の場として、もう一ふんばりも二ふんばりもしなければならない。

(『思想運動』1036号 2019年1月1日号)