「責任阻却」の論理を揺るがす底辺の労働者の「土性骨」とは
HOWS講座「大西巨人『神聖喜劇』を読む」第二回報告を終えて

斉藤光太郎(HOWS文学ゼミ)


 一月十六日、わたしは『神聖喜劇』の「第二部 混沌の章」について本郷文化フォーラムで報告させていただいた。『神聖喜劇』については、わたしは過去に漫画版(のぞゑのぶひさ・岩田和博)で接したことがあり、この小説の世評がどうであるとか、全体が長大であるとかいったことを気にせずに、軍隊内の生活を描いた一編の小説として素直に読むことができた。今回報告をするにあたって、わたしはこの小説を「スーパーヒーロー」東堂太郎が主人公として活躍する話としてではなく、一人の特異なインテリゲンチャが兵隊という身分に身を置くことで、社会の最下層で生き抜いてきたプロレタリアートに初めて接して変わっていくという、「教養小説」としての面を強調した。
 ここでいうプロレタリアートとは「土百姓」「坑夫」「隠坊」(火葬場作業人)などであり、そこには被差別部落民も含まれる。学問はなくとも過酷な生活を生き抜いてきたかれらの素朴で実直な精神や、職業体験からくる確かな現実認識、すなわち「土性骨」に触れ、東堂が抱いていた「我流虚無主義」が揺らぎだす、ここに『神聖喜劇』第二部の面白みがある。鉢田、橋本、冬木といった登場人物たちは何ら有能でもなく、また反体制的でもないが、その朴訥さと正直さ、それらを貫き通す粘り強さによって東堂を驚かし、感動させる。
 東堂はインテリゲンチャ出身の兵に対しては手厳しい批判と嫌悪を抱き、逆にさげすまされている無学歴・最底辺の出の兵にはある種の共感と敬意を払っている。それは小賢しく立ち回ることよりも実直さに価値を見いだす、質実剛健の美意識に根差しているのだが、その根本には東堂の人格形成に大きく影響を及ぼした父の武家的な教えがある。
 そのように封建思想の良質な部分と、「労働者こそが現実と格闘しこの社会を動かしているのだ」というマルクス主義的な認識とが縒り合わされているのが、東堂の特異性であり、軍隊生活の中でその矛盾した二面性を自覚させられていくことになる。東堂のマルクス主義者としての独特のスタンスについては、列挙されたかれの蔵書名から理解を試みたが、不明な点が多く残った。
 もちろん基本的には、軍隊内の不条理に東堂がどう認識を研ぎすまし、日々降りかかる災厄に身を処していくか、というスリルが物語の中心にある。東堂の鋭敏な、饒舌でもあるような思索により、われわれは上官による些細な理不尽から、軍隊全体を通底する「上級者責任阻却」の論理、すなわち無責任の体系に思い当たり、その頂点にあらゆる責任から免責された天皇を鎮座させる大日本帝国そのものの非合理性にまで思いを巡らすこととなる。このような国家のあり方への疑念が「兵士の食事のおかずが大根であることは軍事機密だと言ったのは、上官ではなく部下だ」というような笑止千万な責任のなすりつけにおいて描出されるところが、この小説の「神聖なる喜劇」というタイトルの意図するものだが、逆に言えばそのような些細な理不尽をまかり通らせていることが権力のピラミッド構造を下支えしているとも言える。そもそもこのような上級者の責任逃れという現象は、何も軍隊に限ったことではない。戦前・戦中はもとより、民主化されたように見える戦後の日本でも同様の事態は横行している。
 軍隊のような巨大な支配機構の前に個人は無力に見える。しかし曲がりなりにも軍が近代的な組織である以上、そこには様々な法規・内規があり、それらは一応、法として論理的な一貫性・整合性をもって運用されねばならない「はず」のものであるし、またそうでなければ軍の規律にも支障をきたす以上、軍隊も必ずしも暴力だけが支配する世界ではないのではないか。
 ならば、軍規に通達してそれをうまく用いれば、一部の軍人の恣意的な組織運用をただすぐらいのことはできるのではないか。
 東堂が気がついたこのような視点はわれわれも参考にすべきものがある。たとえば当日の議論では、現在の労働運動において、それ自体は不当な内容である労働契約法や就業規則を逆手にとって、労働者の権利を取り戻す試みもある、もちろん同時に労働現場で仲間を作っていくことが重要なのだが、という指摘があった。
 ところで、東堂は戦争や暴力を深く憎みながら、一方では野砲に「官能的な魅力」を感じたり、砲兵操典に「ある否定的ならざる感動」をおぼえて熟読する、という面がある。むろん東堂はそのような己の危うさに自覚的であり、たとえば森鴎外の戦争詩「唇の血」に愛着をおぼえることを「半面胡乱な、非理性的な性格を伴っているのであろう」と分析したりもするのだが、それにしてもそれはかれの武士道的な勇ましさ・潔さへの傾倒と無縁ではないし、労働者出身の兵士に対する信頼感が「戦地に行ったら人一倍勇戦奮闘するであろう」という印象に基づいていることとも関連する。このように主人公の矛盾した性格をもえぐり出す大西巨人の文学性は深い。
 そして主人公に立ちふさがる最大の敵役である大前田軍曹もまた、単なる鬼軍曹ではなく、同時に土百姓としての機智や思いやり、生活に根差したまっとうな現実感覚をも持っており、矛盾した面を併せ持つ複雑な人間として描かれる。だからこそ、そのような大前田が戦地で中国人への残虐行為に手を染めていたことを自ら暴露する場面は衝撃的だ。
 戦争の本質は略奪や強姦・虐殺だという大前田の開き直りに近い軍隊観をめぐっては、参加者から「軍隊一般の問題ではなく、帝国主義の侵略軍という性質を見るべきだ」という異論も出された。他にも重要な論点がいくつか指摘されたが、時間の都合で十分に討議を尽くすことはできなかった。引き続きこの講座で追究していきたいので、ふるって参加してほしい。

(『思想運動』1037号 2019年2月1日号)