連載 日本の戦後補償 ── 東南アジアの歴史を通じて考える ②
置きざりにされてしまった現地の協力者   倉沢愛子(慶応義塾大学名誉教授)

不十分だった戦犯裁判

 どうして連合軍の捕虜の犠牲しか知られてこなかったのかというと、一つにはこの映画(『戦場にかける橋』)の影響もあるが、もう一つの理由は、戦争が終わったときに行なわれた戦犯裁判の性格にもよる。東南アジアではBC級の戦犯、つまり戦争の実行にかかわったA級戦犯ではなくて、現地で残虐行為等を働いた人を裁くBC級の裁判が行なわれた。そのときに、捕虜を虐待した罪で、泰緬鉄道建設にかかわった日本の鉄道隊のなかには、裁判にかけられて死刑になった人もいる。連合軍の死につながったような人は裁かれている。ところが、アジアのロームシャはもっともっと多くの人が死んでいるのに、そのことは戦犯裁判で一言も触れられてない。白人を一人殺すと裁判で裁かれるが、アジアの人を何人殺しても裁かれない。本当に不平等な人種的偏見が、あの裁判にはあったと思う。
 泰緬鉄道建設の労働者はジャワだけでなく、タイとかマレーとか、いろいろな国の人びとが集められていた。ジャワからの人が一番多かったのだが、マラヤに住んでいたインド人もいれば中国人もいる、というように、いろいろな人種が集められていた。そして戦後は、自然解散になり、一部は連合国により帰国できた。
 どうして自然解散かというと、戦争が終わるぎりぎりまで日本軍はかれらを使っていた。しかし、いざ戦争が終わるということが解ると、日本軍はロームシャをそこに置いたまま、自分たちだけでどこかに集結してしまう。はっきり終戦を伝えるのでもなく、とにかく姿を消してしまった。そうすると、残されたロームシャの間に噂が広まる。どうやら日本は戦争に負けたらしい。日本軍に協力したわれわれも捕まる。罰せられるらしいとか、悪い噂が広まる。
 それで、多くの人たちは現地の民家などに逃げ込んで隠れ、そしてずっと隠れていた。

置き去りにされたロームシャたち

 やがて終戦になると連合国軍がやってきて、日本軍に使われていた労働者がいるはずだ、ということで、かれらを探すためのビラを配った。飛行機で「もう戦争は終わった、君たちのことは悪いようにしないから出てきなさい」というようなことをインドネシア語、マレー語、中国語などで撒くわけだ。それを信じて出てきた人には、きちんと食料も与え、健康管理もしてくれた。どれだけいるかわからないが、そうしたビラを信じないで、そういったことも知らないで、タイやビルマの農村に残った人もいる。こういう人たちの中には、ずっと後になって、世の中が落ち着いてから出てきて、自力で漁船等で帰国した人もいる。そういう力もなく、そのまま置き去りになった人もいる。インドネシアとタイが国交を回復したときも、そのことを聞きつけてインドネシア大使館にたくさんの人がやってきたそうだ。そして、自分はこれこれの出身で、こういう事情で連れてこられた、ということを事細かに申し立てたそうだが、当時のインドネシア政府はお金もなくて、そのままうやむやにしてしまった。その点については、わたしは当事者に会ったわけでもないので、詳しくはわからない。後に、当時インドネシア大使館員だった人が手記に書いているのを知って、会いに行こうとしたのだが、すでに亡くなってしまっていた。
 インドネシア政府がもっと毅然としていれば、当然、日本に突きつければよかったわけだ。「あなたたちが置き去りにした人たちがこんなにいるのだ。こういった人たちの帰国費用の面倒を見てくれ」、と言ってもいいわけなのだ。
 しかし、日本政府とのいろいろな関係もあり、日本にそういう要求を出していない。だから日本政府も知らない。そういう人たちがいることを。

2、戦争に協力させられた人びと

 兵補という言葉は耳慣れないかもしれないが、文字どおり兵隊の補助、補助兵のことである。日本軍の定義では、東南アジアの占領地で現地住民の中から募集して日本軍部隊に配置された「帝国臣民ニアラザル」兵士のこと(兵補規定施行細則・一九四三年四月)である。日本人、台湾人、朝鮮人は帝国臣民だが、兵補は、「それにあらざる兵士」のことを指す。
 当時の日本軍は、日本人兵士だけではなく、朝鮮と台湾からも兵士を募って、いわゆる「皇軍兵士」という扱いになっている。朝鮮や台湾の人たちも、ここでだけは平等に「皇軍兵士」なのだ。ところが、東南アジアで採用されて軍人になった人は、「皇軍兵士」と呼んでもらえなかった。兵補と言われて、朝鮮や台湾の出身者よりももっと差別された。
 どういう人から兵補を採用したかと言うと、最初はオランダ植民地軍の兵士で日本軍の捕虜になった者の中から、日本軍に忠誠を誓った者を採用した。オランダの植民地軍というものがあって、これは司令官や将校はオランダ人なのだが、兵隊たちはほとんどが、インドネシアの人だった。この部隊が、開戦時に日本軍と戦闘して負け、兵士は捕虜になったが、日本軍は、インドネシア人兵士に対し、日本に忠誠を誓うなら釈放してやる、日本軍の兵になれと持ちかける。このまま捕虜でいるか、自由になって兵補になるかを選ばせるわけだ。多くのインドネシア人が兵補になった。だから、最初の世代の兵補は、元植民地軍の兵士で、すでに訓練を受けている人だった。
 兵補は、現地の各部隊による採用である。会社で言えば現地採用ということだ。だから、かれらの軍籍は日本に記録されてはいないし、日本に報告されてもいない。ジャワ全体の軍ではなくて、駐屯地の各部隊による採用で、小さな部隊でもそれは可能だった。だから、各部隊内では名前が登録されているが、日本軍の大本営では名前も登録されていない。
 規定によれば、かれらは部隊が移動する際には除隊させるということになっていた。しかし、実際にはいっしょに移動するケースもたくさんあった。せっかく訓練し、日本軍にも慣れた者を手放すのはもったいないということで、移動の際連れて行ったのだ。ジャワの兵補の場合、ジャワからビルマとか、ジャワからフィリピンへ、と国外に連れて行った。これがまた大きな問題になっている。
 ジャワの兵補の場合だと、マレー、シンガポール、ビルマ、フィリピン、カリマンタン(ボルネオ島)、モロタイ、ハルマヘラなど、さまざまなところに送られている。そして、実戦に従事し、多くの戦死者・負傷者が出た。兵補の数は、ジャワ全体で二万五〇〇〇人くらいが集められたのはではないかと推定されている。それが敗戦のとき、どうなったのかであるが、これもまた、現地で自然解散なのだ。
 敗戦とともに、日本軍が連れて行った先で、日本軍は日本軍で集結して、兵補たちは置き去りにされてしまった。少し日本軍の弁護をすると、日本軍は連合軍によって集結させられてしまい、兵補の面倒を見たくても切り離されてしまっていて、できなかった、という事情もある。そこで自然解散になってしまった。
 兵補もロームシャと同じで、連合軍によって助けられて故郷へ戻れた者もいれば、戻れなかった人もいた。この人たちも、後に日本に要求を出してくることになる。 (つづく)

(『思想運動』986号 2016年9月1日号)